2018.5.30
三英傑に仕えし兵(つわもの)ども〜其の二「西尾吉次」
この記事は、2018年5月1日(第47号)に掲載された記事です。
家康の才を見抜いた三河の将
信長家臣としてはマイナーな存在ではあるが、名門吉良氏、吉良持広の実子であり、本来ならば東条吉良氏の嫡流であった。吉良氏が今川、織田の勢力争いに巻き込まれ混乱したあおりを受け、幼小時に信長の元へ人質として送られ「桶狭間の戦い」を機に信長家臣となる。
吉次は三河西尾の土豪で嫡流が美濃へと移っていた西尾氏の名跡を継ぎ、西尾義次と名乗っていたが「本能寺の変」の直後、堺見物をしていた徳川家康の案内役を務め「神君伊賀越え」に同行した功により秀吉より偏諱を受け吉次と改名する。信長の優秀な側近として、安土城の石奉行や武田攻めの検使役などを務めるが、武功はあまり伝わっておらず、長谷川秀一などと並ぶ織田家の文官としての役割を担っていたと思われる。
秀吉時代になると、一早く家康傘下に入り後に家臣となった。これは松平家との所縁が理由とされるが、吉次の先見の明とも考えられる。忠臣蔵で有名な吉良上野介は吉次に代わって東条吉良氏に養子として入った吉良義安の末裔である。
執筆:堀川 泰伝
安土城 石垣
石垣職人集団、「穴太衆(あのうしゅう)」を率いて近世城郭の範となる安土城築城において石奉行に任命される程、吉次は信長の信を得ていた。